広島の福山市にいったい何があるのですか? 【第4回】坂本龍馬「海援隊」、鞆の浦での“丸儲け疑惑”と福山“100万本のバラ”物語
「バラのまち」と呼ばれる(らしい)広島県福山市にあこがれて、広島・備後地方を旅するツアーに東京から参加することになったライターの白石あづさが、福山市の鍛造工房や鞆(とも)の浦などをめぐり隠れた魅力に迫るシリーズ第4回。今回は歴史に思いをはせながらの鞆の浦クルージング続編です。
坂本龍馬と紀州藩の生々しい賠償金交渉の跡
福山市の海には、たくさんの物語が眠っている。前回、老舗旅館「あぶと本館」の運営するクルーズ船に乗り、鞆の浦港や弁天島などの名所や伝説をご紹介したが、鞆の浦の名を近年、もっとも有名にしたのは、江戸時代最後の年の事件である。坂本龍馬率いる「海援隊」の面々を乗せた船「いろは丸」が、紀州藩の大型船とぶつかって沈み、双方がここに上陸して歴史に残る補償交渉合戦を繰り広げたのだ。
海援隊の船を模した「平成いろは丸」は、毎日、鞆の浦港と仙酔島間を運行中
刀を手にした合戦でもないし、ヒザつき合わせた交渉合戦がなぜそんなに有名になったのか不思議であったが、当時の鞆(とも=鞆町あたりの地区の旧名)ではその話で持ち切りだったようで、海援隊はこの事件をきっかけに全国に名を轟かせていく。いまもこの地域では、談判がおこなわれたり、関係者が宿泊していた家屋などが観光名所にまでなっているのだ。
たとえば、談判の会場となった「魚屋萬蔵宅(うおやまんぞうたく)」は、大正時代に修復され、いまは宿泊や食事ができる「御舟宿いろは」となって人気らしい。もうひとつの談判場所だった「対潮楼(たいちょうろう)」は1690年ごろ建てられた福禅寺の客殿で、江戸時代には朝鮮通信使のための迎賓館としてもつかわれていたそうだ。船の上からも見えたが、ここから眺める鞆の浦は、それはそれは美しいそうだ(大人200円、中高生150円、小学生100円で見学可能))。
船が沈没してしまった龍馬ら海援隊は鞆で過ごした4日間、商家の桝屋清右衛門に家を提供してもらったという。泊まったのは客間ではなく、階段のない2階の隠し部屋。龍馬らはそれだけ身の危険を感じていたということなのだろう(この部屋も見学できる)。
さて、紀州藩との交渉の場で海援隊は、「いろは丸には鉄砲や金塊を積んでいた」と主張し、「賠償金8万両を支払え」と迫ったとか。その後、長崎に場所を移して交渉は続けられ、結局7万両が紀州藩から支払われることになった。いまのお金に換算すると何十億円にもなる。交渉には勝利してホクホク?の龍馬だったが、お金が支払われた数日後、京都で暗殺されてしまった。
ところで金塊を積んでいた船はどうなったのか。浅ければ引き上げられたかもしれないが、水深27mのところに沈んだとあっては、当時はどうにもならなかったのだろう。それから長い年月が経った1989年、鞆の浦の人びとで結成された「鞆を愛する会」によって、沈没したいろは丸が発見された。
それから数度、研究機関によって調査がおこなわれたが、2006年には、暗い海に何度もダイバーたちが潜り、海底に埋まった船体を掘り起こし、磁器の椀やワインボトル、硯の箱などを回収するという、大がかりな調査が実施された。海援隊は長崎を拠点に海外からさまざまなものを輸入し、それを大阪に運んで売り、かなり儲けていたようだ。けれど前述の調査では、龍馬たちが「積んでいた」と主張した鉄砲は1丁も、金塊もひとかけらも発見されなかった……。これって、えええ!?
もしかして、龍馬らの主張は大ウソで、いろは丸事件は巨額詐欺だったのか? 気の毒すぎる紀州藩。徳川御三家のうちのひとつなのに、紀州はどうして押し切られたのか。それにしても龍馬よ、侍の名を汚すような行為はいかんぜよ。
鉄骨の芸術!? 内海大橋をくぐり抜ける
歴史のヒーローの真っ黒な腹の内を知った私のショックは計り知れないが、話をクルーズ船に戻そう。鞆の浦港を後にした船は「あぶと本館」前を通過してさらに西へ。夕暮れをバックに本島と田島を結ぶ全長832mの内海大橋が頭上に迫る。
いままさに、内海大橋の下をくぐる
大きくカーブした橋の鉄骨の重なりが美しく、下をくぐり抜けるときに何度もカメラのシャッターを押した。これまで誰がつくったかわからない鉄の部品や製品なんて気にもかけなかったけれど、先ほど訪れた三暁(第1回、第2回参照)の社員さんたちの顔が浮かんでくる。
ここで一句。タンカーが、夕日に映える、造船所
内海大橋の先は、建造中の船が並ぶ造船所だ。これまた巨大な鉄の塊であるタンカーが何隻も停泊している。実にダイナミックな光景だ。福山の海をめぐる1時間ほどの船旅は、江戸時代から現代への絵巻物を広げて見ているような気分になれる。
この穏やかな海の上には、湿気を帯びた空気とともに、たくさんの物語が漂っている。誇りや悲しみや喜び。クルーズ船の船長であるお父さんは、とつとつとマイクで話し続けている。風が強くてアナウンスが聞こえなくなると、デッキの若い男性スタッフが、うまくかいつまんで解説してくれる。
船を降りるときに、その若いスタッフは船長の息子なのだと聞いた。ふたりは「ふだん、こんなに写真撮られることもないからさあ」と、恥ずかしそうにそれぞれ写真に納まってくれた。
クルーズ船の船長さん
さすが息子さん、船長のアナウンスが聞き取りにくくても、しっかり“翻訳”してくれる
たった30本から100万本に! 福山バラ伝説
福山のバラが気になって参加したメディアツアーだったが、結局、ばら公園には行けなかった。バスの窓からでも見られないかと期待したが、今回のプログラムは、郊外が中心で市街地をそもそも通らなかったようだ。咲いていない季節なのに見たいと思うほうが変なのだが、きっと旅の神様が「バラが咲く季節にもう一度、福山に来い」と言っているのだろう。
ところで福山市ではいつから市民がバラを育てているのか? 帰宅後、福山市役所に電話で問い合わせてみたら意外な事実が判明した。市民がバラを植え始めたのは約70年前、1956年のことらしい。市内の47名のバラ愛好家によって「福山ばら会」が結成され、その年に1000本のバラの苗木が南公園(現在の「ばら公園」)に植えられた。
実は市街地の約8割が焼失した1945年8月8日の福山空襲が大きく影響している。終戦から12年後。戦後の大変な時期を乗り越え街も復興へと向かっていたが、いち段落したときに空襲の日を思い出したのだろうか。「戦争で傷ついた心を癒し、街に潤いを与えるため」にバラを植え始めたらしい。「バラは手入れが大変だからこそ癒される」と誰かが言っていたのを思い出した。
ところでなぜ菊や桜ではなくバラだったのだろう? もともとこのあたりはバラの一大産地だったのだろうかと気になって調べたら、福山市民の中村金二さんの名前を見つけた。空襲による被災を奇跡的に免れた金二さんは、自分の屋敷を被災した人たちに開放して水や食料を提供し、市民の心の癒しになればと菊やダリアを空き地に植えていたという。
それから4年後の1949年、横浜で開催された日本貿易博覧会を訪れた金二さんは、見たこともない美しい西洋のバラに感動。30本のバラを取り寄せて庭に植え、毎年、増やしていった。福山ではまだ珍しいバラが咲くのを、近所の人たちは毎年楽しみにしていたという。数年後、金二さんは急死してしまったそうだけど、その想いは枯れることなく地域の人々に引き継がれた。
市民が植えた1000本のバラは市内各地で増え続け、いまでは100万本のバラが咲く街になった。1985年にバラは市の花となり、ばら公園は2006年に「世界バラ会連合優秀庭園賞」を受賞した。私の問い合わせ電話に対応してくれた市の職員さんは、「実は2025年の5月、第20回世界バラ会議が福山で開催されるんですよ! 3年に一度おこなわれる権威ある大会で、世界中のバラ関係者が一堂に集まるんです!」と声を弾ませていた。
30本から始まった福山の100万本のバラを世界の人びとが見にやってくる。なぜこんなにバラが咲いているのか、理由を知る人はもう少ないかもしれない。けれど、いまも誰かの心を癒していることは間違いないだろう。
福山の旅が終わった。観光地としての派手さはなく、隣の尾道の陰に隠れまくっている感はあるが、実際に訪れてみれば、目には見えないものも含めて美しい場所やものがたくさんあった。「福山ってどんなところ?」と聞かれたら、私は「美しいものや昔の技術を次世代に伝え、人の想いをつないでいく街」と答えると思う。バラが咲き誇る季節が楽しみだ。
■あぶと本館:クルージング https://www.abuto.com/honkan/cruising.html ■第20回世界バラ会議福山大会2025. https://wrc2025fukuyama.jp/
photo & text/白石あづさ