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「どこまでが被害者なのか?」小林エリカ×キム・スムが考える、文学にできること【中編】
「どこまでが被害者なのか?」小林エリカ×キム・スムが考える、文学にできること【中編】
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「どこまでが被害者なのか?」小林エリカ×キム・スムが考える、文学にできること【中編】

今起きている戦争や紛争の引き金には、貧困や差別を始め、個人から世界レベルまで、さまざまな問題があります。世界が争いへと向かわないために、まずはその根源にあるものと向き合い、何が起きているのかを考えることから始めましょう。漫画家・作家の小林エリカさんと、作家のキム・スムさんの対話から、現在の平和への課題を知り、未来のためにできることを考えます。

▼前編はこちら

「失われた人生を修復する」

小林 わかりやすさの過剰な追求や、事実を誇張し煽ることでの共感の呼びやすさ、善悪や答えをすぐに求めたいという欲望。多くの人たちが忙しい現代社会のなかで、たくさんの小さな声に平等に耳を傾けようとすることは、時間もかかるし忍耐力もいるし、とても大変なことだと思います。そのなかで、どうしたらその声を聞き、そこからひとりの人間を、その生を復元していけるのか。それを考え続けることは文学においてはもちろん、生きるうえでも重要なことだと私は信じています。

キム 私は作家と美術作品を修復する人々は同じような役割を担っているのではないかと感じています。文学、文字によって誰かの失われた人生を修復するという点において。

小林 キムさんの著作『Lの運動靴』は、1987年の韓国民主抗争で命を落とした20歳のイ・ハニョルさん、作品の中では「L」という名の青年ですが、彼の遺品の運動靴をある美術修復家が復元する過程を描いた物語です。大部分が劣化し、失われてしまったLの運動靴を前に修復家は迷います。レプリカをつくるか、最小限の修復に留めるのか。どの方法をとっても完全に元の形に復元することはできないけれど、それでも懸命にそれがかつてどのような形だったのかをつかもうと考え続けます。そこにはキムさんの作品づくりに対する姿勢と通ずるものがあるなと感じていました。Lの運動靴を修復することはつまり、Lという実際に生きていたひとりの存在を復元しようとする試みでもあって、その過程で生じる迷いや葛藤に誠実に向き合うことは、文学においても大切なことだと気づかせてもらいました。

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キム 私はそういう意味でも美術作品の修復に興味があって、修復家についての勉強をしていたんです。その過程でイ・ハニョルさんの運動靴を修復している方の講演会を聞く機会がありました。その話を聞いて、それは物理的に運動靴を修復する作業ではなくて、それを履いて生きていたイ・ハニョルさんの人生を復元することなのだと考えるに至りました。運動靴を修復する過程を描くこと自体が、もしかしたら彼を復元することにつながるのではないかと。そう思った瞬間、『Lの運動靴』というタイトルが浮かびました。

小林 作中でLの運動靴が匂いを放つシーンがありますが、そこがとても印象的でした。それは修復に使う化学薬品の匂いではなくて、食べ物や獣が腐って放つ匂いに近いと。目に見えるものがたとえ失われたとしても、目には見えないもの、匂い、声、記憶、といった痕跡が、この世界には存在し続けている。そうした「生の形」をなんとかしてつかもうとする努力は、そこにあったはずのひとりの人生を復元しようとすることであり、それは失われてしまった大切なもの、ひとりの生を、存在を、取り戻したいと願う切実さだと感じました。

キム 作品を書くにあたって、イ・ハニョルさんの運動靴を修復する研究室に足を運び、修復家の方にいろいろな質問をしました。実はその匂いについては、修復家の方が実際にそういう匂いがしたとおっしゃっていたんです。とても不思議なことですが、想像ではなく事実なんです。そんなふうに、事実に忠実に書く、書こうとしていると、ときに小説のほうから私に問いを投げかけてくることがあります。そのひとつに、「どこまでが被害者なのか?」ということがあります。私はL、つまり民主抗争の最中に警察の発砲した催涙弾によって命を失った20歳の被害者について書こうとしていたわけですが、場合によっては被害者をもっと増やしてしまう。それはLの家族かもしれないし、友人かもしれない。そういう状況をつくらないように、今自分は何を書いているのか、それによって生まれる被害者の範囲はどこまでなのか、それを常に意識していました。ひとりの人間の歴史を復元することは同時にその人を取り巻く多数の人々の人生を復元することであり、方法を間違えると、とても危険であるということです。

小林 私も作家として書くということの暴力性、自分が書くことによって誰かを傷つけてしまうのではないかということに、いつも気をつけたいと思っています。キムさんは『ひとり』を執筆される時に、元「慰安婦」の方に実際に会って話を聞くということをされなかったと聞きました。そこにはどんな思いがあったのでしょうか?

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キム ひとつは特定の女性に関する話だけにフォーカスが当たると、「慰安婦」の歴史全体の話の妨げになるのではないかと考えたことです。先ほどもお話しした通り「慰安婦」については個人やその人が所属していたコミュニティ、そして国、さまざまな関係が複雑に絡み合っていて、簡単に善悪や被害者/加害者という視点で語ることは危険です。だからこそ300以上の証言を読み、平等にそれらを捉えたいと思っていました。もうひとつは存命の証言者の方々が90歳以上の高齢であること、そして何より、元「慰安婦」の方々に実際にお目にかかるということが怖かったということもあります。それは先ほど小林さんがおっしゃった暴力性、つまり、私が直接会って辛い過去について話を聞くことが、彼女たちを傷つけることになるのではないかと思ったことも大きいです。

小林 すごくよくわかります。私は先ほど少しお話ししましたが、今、第二次世界大戦中に学徒動員された女学生についての小説に取り組んでいます。東京宝塚劇場に女学生が動員されて、こんにゃく糊と和紙で風船爆弾をつくっていた。実際そのうちのいくつかはアメリカ本土にまで到達し、教会の日曜学校に参加していた子どもたちを含む6人の命を奪いました。その作品を書くにあたり、2人の元女学生の方に会ってお話を伺う機会をいただいたのですが、やっぱりすごく気を遣うというか、どんなふうにお話をすべきか迷いましたし、どう書くかについても引き続き慎重に考えています。一方で、リサーチをする過程で、彼女たちが通っていた女学校の先生や生徒が行った聞き取り証言の記録や、卒業生がまとめた文集の手記などに出合いました。出版物という形ではないのですが、誰かが彼女たちの過去について一生懸命聞き取ったり、書き記したりして、なんとか伝えようとしたものを今、私が受け取っている。小さな声を残そうとした人たちがこんなにたくさんいたんだという事実に胸打たれますし、その言葉や記録に自分が出合ってしまった限り、それを書き記して、別の誰かに手渡す作業をしたい。最近、強くそう思うようになっています。

キム 私も『ひとり』を書きながら同じことを思っていました。「慰安婦」のことを書きたいと思った時、そこには膨大な数の証言や記録があって、その歴史を誰かに伝えたいという人が大勢いた。だから私はあの本が書けました。とてもありがたいと感じますし、私も誰かに伝えなくては、渡していかなければと強く感じています。

小林 自分の仕事は文学であるのだけれども、同時に、かつて誰かが手渡そうとしてくれたものを集めて、それを縫い合わせていくみたいなことなのかもしれないと考えています。ひとりの少女、歴史書に名が書かれることのない、いわゆる「名もなき」ひとりについての証言でさえ、こんなに大勢の人が残したいと考えていた。その事実に触れるたび感動し、その一人ひとりの名を記していきたいと思うのです。

▼後編につづく

PROFILE

小林エリカ Erika Kobayashi■1978年東京都生まれ。目には見えないもの、歴史、家族の記憶などから着想を得て、丹念なリサーチに基づく史実とフィクションからなる小説や漫画、インスタレーションなど幅広い表現活動を行う。作品にイラストも手がけた絵本『わたしは しなない おんなのこ』(岩崎書店)など多数。

キム・スム■1974年韓国蔚山生まれ。97年に『大田日報』の新春文芸(文学新人賞)、98年に文学トンネ新人賞を受賞しデビュー。歴史の中に埋もれた人々の痛みを見つめ、人間の尊厳の歴史を文学という形で蘇らせる試みを続けている。2015年に韓国で最も権威ある文学賞、李箱文学賞を受賞。

●情報は、FRaU2023年8月号発売時点のものです。

Illustration:Erika Kobayashi Text & Edit:Yuriko Kobayashi Composition:林愛子

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