脳出血で倒れたワーママ、その後の日々⑩ 右手右脚が動かなくなった日から5年。目標だった「料理」「仕事」「運転」のいま
2021年7月後半のある日曜日の午前中に、突然倒れた本サイト制作担当の私、エディター・ライターの萩原はるな。救急車で運ばれた病院の医師からは「脳卒中の一種である脳出血」と告げられ、命は助かったものの、右手右脚がピクリとも動かない状況に! そこから約5ヵ月のリハビリ入院を経て車イスを卒業、退院半年後には何とかツエなしで歩けるようになりました。あれから約5年、入院時に立てた目標「以前のように仕事、料理、運転がしたい!」は、どうなったでしょうか。不自由な右手と不器用な左手を駆使して日々を送る、いまのリアルをお届けします。
小学生だった子どもたちは、高2のギャルと中2の野球少年に!
何の前ぶれも心構えもないまま、突然脳出血(脳卒中の一種で、脳の血管が破れる病気)で倒れ、右半身が自由に動かせなくなってしまった私。2週間の急性期病院(=病気が発生した際に治療を受ける病院)での治療を経て、約5ヵ月間リハビリ専門病院に入院しながら、リハビリ漬けの生活を送っていました。当時は40代で、娘は小学6年生、息子は3年生。おりしもコロナ禍真っ只中で、見舞いに来てもらっても会うことができず、かわいそうなことをしてしまいました。晴れて退院したら、娘は私よりずいぶん背が高くなっていて、半年弱の“長さ”を痛感したものです。

倒れた直後は右手右脚がいっさい動かせなかった。看護師さんに「歯を磨いてくださいね」と言われ、「え、どうやって? そうか、左手で磨けばいいのか。ん? どうやって??」と困惑したことをよく覚えている
リハビリ病院に入院したときの目標は「料理」と「仕事」、そして「運転」を以前のようにできるようになること。リハビリ初日に担当の理学療法士さんにそう告げると、「いまはまだ、そこまで目指さないほうがいいですよ」と言われ、「ムリなのかなあ」と激しく落ち込みました。でも、料理も仕事も運転も、子育て真っ最中の私にはマスト! ひたすらその3つの復活を目指して、リハビリと自主トレに励みました。その結果、退院時にはツエと装具に頼りながら歩けるように! 発症から1年後には、そのツエと装具も卒業し、右手は何とか左手のサポートができるまでに回復したのです。
まもなく、発症から5度目の夏がやってきます。前回の報告記事では「3年たったいまは、スポーツこそまだまだ難しいですが、歩いたり買い物に出かけたり、出張に行ったりと、ほぼ人の手を借りずに社会生活が送れるようにはなっています」と言いましたが、身体の状態はそこからほぼ変わっていません。リハビリは2週に1度、自宅近くの病院に通所して受けていましたが、2023年冬にヘルニアになってしまい中断。そろそろプロの手を借りなければ、と思っているところです。
脳出血の原因といわれた高血圧は、いまも治療中。ここで薬を飲むことを怠たると再発の危険が高まります。ストレスがかからないよう、体重を増やさないよう、お酒を飲みすぎないよう(うぅ)、できる限りがんばらないと!

脱力状態の“いま”の両手。右手は薬指と小指がまっすぐに開けず、人差し指は油断をすると手の甲側に反ってしまう
小走りができないため、信号は点滅したらまず渡れないし、ギリギリ間に合いそうな電車もやむなく見送らなければなりません。とはいえ脚はその程度なので、さして困らないのですが、問題は右手。なんとか箸やペンは握れるものの、指がのろのろとしか動かせないうえに可動域が極端に狭いため、できることが限られるのです。でも人は、他人の指の動きを注視したりしないもの。長時間一緒にいて飲み食いをともにした人でも、私の右手右脚が動きにくいなんてことは、ほぼ気づかないのでした。

ある日の夕食。さつまいもご飯とカボチャの煮物、シジミの味噌汁、ブロッコリーの蒸し煮、フライパンで焼いたローストビーフ。ちらっと手が写っている息子は「前にくらべてお母さんのごはんが変わったとは、一度も思ったことないよ!」とモリモリ食べてくれる
そんなわけで、クレジットカード払い時にサインしたり病院で問診票を書いたりすると、「なんで、この人はこんなに書くのが遅いんだろ?」と不思議そうな顔をされがち。レジでモタついているおばあさまを見ると、「わかります! 精一杯急いでいるんですよね!」と勝手に親近感を覚えています。現金での支払い(とくに小銭!)もおっそい私にとって、電子マネー全盛のいまは大助かり! 交通系カード、クレジットカード、QRコード払いの三本立てで、現金はほぼ持ち歩かなくなりました。
料理は倒れる前と味覚も好みも変わっていないので、つくるものの味は変わっていないはず。包丁で切るのは“腕の仕事”なのでできますが、野菜や果物の皮をむく、魚をさばくなど“指の仕事”は難しい! でもいまはピーラー各種があり、包丁をつかわずに何でもむけるのです。リンゴ専用、キウイ専用のツールなんかもあって、食器や調理器具なら何でも売っている「かっぱ橋道具街」通いはやめられそうにありません。

青森で伝統の南部裂き織りに挑戦。糸を通したら、両手で棒を持って「カッ、カッ」と打ち込む。この作業は指をつかわないのでOK! でも、縫いものや折り紙などは全滅(悲)
続いてふたつ目の目標、仕事について。前述のとおり、取材をしながらメモをとるのは難しいのですが、座ってのインタビューならパソコンで、立っての取材ならスマホでメモれる! いまはスマホで録音すれば文字起こしまでしてくれるので、メモと合わせれば取材内容はバッチリ記録できます。ただ、以前より原稿を書くのに時間がかかるのと、集中力が持続しないのが悩み。でもこれ、脳出血の後遺症ではなく加齢のせいかもしれません。
階段の上り下りや歩行はほぼ安定してきたので、出張時の町歩き取材などもほぼOK。ただ、群馬の尾瀬ヶ原でのルポ取材には苦戦しました。鳩待峠(はとまちとうげ)から湿原を目指したのですが、行きはずっと下りで高低差は約200m。そこから湿原を眺めながら木道を歩き、すっかりいい気分になったまではよかった。けれども復路は、下ってきた石段をひたすら登らなければなりません。まさに「行きはよいよい、帰りはコワい」。上るにつれ汗が吹き出し、息が上がって心臓はバクバク! 脚が思うように上がらなくなり、同行者にカメラや荷物を預けて(ありがとうございます)、何とかスタート地点に戻れました。こんなに動悸が激しくなっちゃって、大丈夫か、私!?
そういえば、倒れてから一度も息が上がるような運動をしていません。当然、心肺機能も低下しているのでしょう。でも、走ったり泳いだりは物理的にできないし……。以来、朝歯磨きをしながらのスクワットを日課にしました(忘れがちですが)。

尾瀬を代表する名山のひとつ、標高2228mの至仏山(しぶつざん)。訪れたのは昨秋で、赤やオレンジ、黄色に紅葉した木々や草が美しい。尾瀬ヶ原も黄金色の「草紅葉」に覆われていた
最後の目標は車の運転でした。リハビリ病院に入院中から左手一本でのドライブにチャレンジし、ドクターのお墨つきをいただいた私。退院当日に母に送ってもらって教習所に行き、テストを受けて「運転してもOK!」と許可をもらったのでした。昨年、14年間で12万㎞も走ってくれた愛車は寿命を迎え、新車を購入! 以前の車とくらべて格段にハンドルの軽さと快適な走りに助けられながら、ときどき右手も運転に参加させています。

朝、お弁当と朝食をつくり、娘を駅まで送る毎日。週末は野球少年を何人も乗せて球場へ送迎! ニュー愛車は仕事でも大活躍
倒れたときは小学生だった娘と息子も、高校2年生と中学2年生に成長。いまや私の身体が動きにくいことはすっかり忘れて(?)、「ワンピース、買ってよ」だの「塾なんか行きたくない!」だの、言いたい放題です。でも、料理も仕事も運転も、自分だけのためなら「絶対に復活するんだ!」とは思えなかったはず。倒れる前は育児&家事の戦力外だった夫も、いまでは掃除に洗濯に大活躍です。
後遺症に加えて目も見えづらくなってきたし、疲れてすぐ昼寝しちゃうし、暮らしにくい身体にはなりました。でも、できることはいっぱいある。子どもが巣立つまで、もうひとふんばり、ふたふんばり、がんばっていこうかな。
photo&text:萩原はるな




