イラストレーター黒田征太郎は、なぜ『戦争童話集』映像化にこだわったのか【前編】
生まれは第二次世界大戦が始まった1939年。「幼少の頃の記憶は、戦争一色。名前にも出征の“征”がついているでしょう。僕は戦争の申し子みたいなものですよ」と話すイラストレーターの黒田征太郎さん。長年、絵を描くことを通して命の大切さや平和への思いを伝え続けてきました。
幼少期の戦争の記憶が創作に駆り立てる

大阪の道頓堀で生まれ、国民学校の1年に上がった年、引っ越した先の兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)で大阪の大空襲を見たという。
「丘の上の町から大阪が焼けただれていくのを見たのをはっきりと覚えています。空が真っ赤に焼けて、下からサーチライトのような銀の光が差し、そのはるか上を同じく銀色の魚みたいなB29爆撃機が飛んでいて、たまにバーっと爆弾を落としていく。音が聞こえない距離ですから、僕はきれいと思いました。きれいってはしゃぎ回ったら、横にいたおじさんに頭をこづかれましたね」

子ども時代の戦争を忘れることはない。まもなく神戸にも大空襲があり、黒田さんの家にも爆弾が落ちて一家は被災する。
「庭先に掘った防空壕の中に入っていましたが、とにかく音がすごかった。ザーッと豪雨のように叩きつける音がして、それがやんで外へ出たら、煙か火薬か、死体が焦げているのか、なんだかわけのわからない臭いがした。風景がまるで変わっていました。庭の草木もないし、防火用水には上半身だけ焦げた死体が浸かっていた。僕の家にも1トン爆弾が落ちて、大屋根から縁の下まで穴が空いていました」

人生の記憶が戦争から始まったという黒田さんにとって、摩天楼のあるアメリカは、終戦後の貧しかった少年時代と対極にあるものだった。船乗りなどさまざまな職業を経験した後でアメリカに渡り、92年から18年間、NYに移住。そこでも絵を通して反戦や反核を訴える活動を続けた。そして代表作のひとつとなったのが、『火垂るの墓』などの作品でも知られる野坂昭如の『戦争童話集』を映像化したプロジェクトだ。
「NYで活動をしていた頃、日本の首相が『戦後50年も経ったから、もう戦争のことは忘れようじゃないですか』っていうステートメントを出したんですね。『もっと前を向いていこう』と。僕は瞬間的に、何を抜かしやがる、違うだろ! と思った。戦争のことは忘れようなんて言う人が首相の国で教育を受けた子どもたちが、世に出て行ってアメリカなんかに住んだら恥ずかしい。そんなときにNYの書店でたまたま、『戦争童話集』を手にして読んだんです。いまの日本にこれを伝えることは、すごく大事だと思った。子どもたちに読んでもらうにはどうしたらいいかと考えて、絵本版をつくりたいと出版社に電話をしたんですね」

絶版寸前だった『戦争童話集』を日本の子どもたちに読んでもらおうと、版元以外の出版社にも掛け合って、12話中の6話までをなんとか絵本にできた。
「でも、それで終わった。僕はだんだんと苛立ってきました。もっととことんやりたいと。映像のほうが面白いんじゃないか、だったらアニメーションにしようと。お金をかけずに映像化する方法を考えた。上から撮りながら、絵を描いた紙を破いたり、水溶性の絵の具で描いた絵に水を差したりというやり方でやったらやれるんじゃないかなと思って始めたのが映像版。結局、金にも苦労したし、完成までに13年かかりましたけど、それが進んでいくと絵本のほうも、思いもかけなかった出版社の人がやりましょうと声をかけてくれたりしました」

野坂昭如との出会いは、互いの新人時代までさかのぼる。東京・数寄屋橋の屋台でたまたま編集者と隣り合わせて『水虫魂』という野坂作品の連載の挿絵をやることになった。
「面白いですよね。まだ仕事がなかった当時、飲んでいたら隣のおじさんに何をしているか聞かれて、絵を描いているとウソをついたんです。それが野坂さんの担当編集だった。本人の作品も知らなくて、いい加減でしたが、仕事がもらえた。数日後、ドキドキしながら出版社に行きましたよ。そしたら野坂さんはなかなか来なくて、僕はカチカチに緊張してね。しばらくしたら野坂さんが、酔っぱらって揺れながら現れたんです。その夜に親しくなってしまった」

後々になって、12話からなる『戦争童話集』に、13話目として沖縄篇を書いてもらいたいと懇願したのも黒田さんだった。
「何度も書けないと断られた。『われわれが体験した戦争は上から弾が落ちてくる。沖縄地上戦は水平に弾が飛んでくるんだぞ。ヘタしたら撃ってくる兵士の目玉が見えるかもしれない。そんなものに想像が及ぶと思うのか』と。でも僕もしつこいですからね」
あるとき、野坂が沖縄に原稿を持って現れた。それが『戦争童話集』の30年ぶりの新作となる『ウミガメと少年』だった。
PROFILE
黒田征太郎 くろだ・せいたろう
1939年大阪生まれ。画家、イラストレーター。船の乗務員などの職業を経て、69年、長友啓典とともにデザイン会社〈K2〉を設立。92年より18年間、NYにアトリエを構え、国内外で活躍。94年から野坂昭如『戦争童話集』の映像化プロジェクトを始動。2004年、発起人のひとりとして、原爆体験を継承する「PIKADON PROJECT」をスタート。09年より、北九州市・門司港に拠点を移す。著書は『教えてください。野坂さん』など多数。
●情報は、FRaU2023年8月号発売時点のものです。
Photo:Tetsuya Ito Text & Edit:Asuka Ochi
Composition:林愛子