福山市にいったい何があるのですか?【第3回】クルーズ船に乗って“おっぱい絵馬”観音から伝説の島々をめぐる
「バラのまち」と呼ばれる(らしい)広島県福山市にあこがれて、広島・備後地方を旅するツアーに東京から参加することになったノンフィクションライターの白石あづさが、福山市の鍛造工房や船で瀬戸内海などをめぐり、同市の隠れた魅力に迫ります。第3回は、瀬戸内海クルーズをお届けします。
瀬戸内海の水の色は「緑」なんかじゃなかった!
さかまく波と、水平線の彼方に見えるのは空と雲だけ。そんな太平洋の荒々しい大海原こそ「海」だと刷り込まれていた関東育ちの私にとって、瀬戸内の「海」を初めて見たときは、「これが海? 川か湖ではないのか!?」と、とにかく驚いた。波はないし、向こう岸も見える。「違う、あれは向こう岸ではなくて小島だよ」と教えられてもピンとこない。けれど、ピターッ!と鏡面のように光る海と、そこに浮かぶ緑の小島が織りなす美しい風景はまだ覚えている。
そんな光景を再び楽しめるかもしれない。鍛造工房でフライパンをつくった後は、バスに揺られて沼隈半島の南へと向かう。南端より少し手前にある割烹旅館「あぶと本館」では、宿泊者でなくても手頃な値段で楽しめる瀬戸内海クルージングツアーを主催しているという。
鞆(とも)の浦北の工場地帯から車で10分ほどの距離なのに、半島の南端は自然が豊かで、あぶと本館ラウンジの大きな窓からは、小島が浮かぶ瀬戸内海の美観を拝める。このツアーに参加する前、呉出身の男性編集者(以下、呉男)から「瀬戸内海は一年中、入浴剤みたいな緑色ですから」と聞いていたが、眼下に見える海は薄いブルーだ。ホテルの人に呉男から聞いた話を伝えると、「入浴剤の色ですって? 瀬戸内海は季節や時間帯で色が変わるんですよ」と大笑いされた。
旅館あぶと本館が所有するクルーズ船に乗り込んで、いざ瀬戸内クルーズへ
定員50人ほどの白いクルーズ船に乗り、デッキに座ると勢いよくエンジンがかかった。最初に向かったのは沼隈半島の南端、阿伏兎岬(あぶとみさき)である。やがて岬の突端の断崖絶壁から、朱塗りの柱が美しい阿伏兎観音(磐台寺)が現れた(冒頭写真)。海の安全を願い毛利輝元によって創建された由緒あるお堂だという。
なぜ毛利家の人が? と不思議に思ってスマホで調べてみると、輝元のことよりも、とあるサイトの「観音堂には『おっぱい絵馬』が並んでいます」という文字に目がクギづけになった。しかもこれ、おっぱいの絵が描かれた二次元の絵馬だと思ったら、三次元の立体的なおっぱい絵馬の写真が載っていて、また驚いた。海の安全を祈願する優美なお堂の壁の中に「おっぱいがいっぱい……」という不思議。
同じメディアツアーの参加者たちは、風が気持ちいいデッキで楽しそうに写真を撮り合っている。私もその輪の中に入らなければと焦るのだが、それよりスマホで調べる手が止まらない。
阿伏兎岬突端の断崖絶壁につくられた朱塗りの観音堂
お堂ができたのは1570年。地域の漁夫が霊夢を見た後、海から網で観音像を引き上げた。それを岩に安置したところ、時の太守であった輝元が噂を聞き、お堂を寄進したのだという。美しいこのお堂は当時からのもの。何度も修復され国の重要文化財として大事にされてきた。そして謎であった「おっぱい」は、慈母観音にちなみ、子宝や安産、母乳のでない女性が昔からお参りをしていたことからきているようだ(現在、お堂の内部は撮影禁止)。
疑問が解けすっきりして顔を上げると、海岸沿いを東に進路を取っていたクルーズ船は、すでにハイライトの鞆の浦港に近づいていた。ここから見どころが連続するらしく、船のスピードがゆるやかになった。
鞆鍛冶(ともかじ)が発展した理由に、恵まれた水運があったことは第1回でお伝えしたが、鞆の浦港が万葉集にも詠まれたほど古代から知られる存在だったのは、この海域ならではの重要な特徴がある。
瀬戸内海の中央に位置する鞆の浦は、引き潮と満ち潮がぶつかる場所であり、古くから「潮待ち港」と呼ばれていた。昔は船にモーターやエンジンなどないので、すべて手漕ぎ。そのため当時の航海には潮の流れが重要だった。瀬戸内海を通る船は一度、ここで停まって潮の流れが来るのを待たなければならない。その分、たくさんの船が立ち寄る港としてにぎわい、発展したそうだ。 鞆の浦港が見えてきた。歴史的に有名な「鞆の浦」という地名だけは知っていたが、その港町は、とっくに近代的なコンクリートづくりになっているのだろうと思っていた。だから、古めかしくも立派な瓦屋根の日本家屋が並ぶ光景が見えたとき、江戸時代の港町の雰囲気がそのまま残っていることにちょっと感動した。沼隈半島の東の端に位置する鞆の浦港は、開発された鉄道や国道などの陸上の交通からは離れていたため、建て替えが進まず、歴史ある街並みが残されたそうだ。
鞆の浦港には瓦屋根住宅の町並みが残る。写真中央がまちのシンボル「常夜灯」
港の端には、高さ10mほどの石灯籠のようなものが建っている。これが鞆の浦のシンボル「常夜灯」で、江戸時代末期の1859年に建造されたという。当時はニシン油の燈火で夜の海を照らしていたのだとか。石畳の港に上陸して歩いてみたい。「福山市には何もないから」と呉男はしきりに言っていたが、こんなに素敵な一角があるではないか。広島の人は奥ゆかしいのか、それとも住んでいると当たり前になってしまうのか。私ごとだが、長野や山梨に登山に行くと、地元の人は「そんなに山っていいもんかあ?」と首をひねる。魅力的だと感じるのは、私がよそ者だからなのかもしれない。
船は弁財天福寿堂が建つ小さな弁天島と、仙人がかつて暮らしていたという伝説がある仙酔島(せんすいじま)の間をすり抜けていく。仙酔という名前から「仙人たちが酒を飲んで酔っぱらっていた島」を想像したら「仙人が酔うほど美しい島」という意味らしい。「山紫水明(さんしすいめい)」という言葉はこの地で生まれたという説もあるという。
一方の弁天島は、別名「百貫島」と呼ばれるのだと、船長さんのアナウンスがとぎれとぎれに聞こえてきた。鎌倉時代の侍と地元の漁師の伝説が残っており、「刀を海に落としてしまった侍が、鞆の漁師に『潜って取ってこい』と命じたところ……」までは聞き取れたが、風で声がさえぎられてしまった。デッキではなく船内にいた人に後で聞いたら、「うーん、侍が『お金を出すから探せ』と言ったんだけど、海にサメが100匹もいて若者が死んだって話だったかな?」と恐ろしい話を語り始めた。
周囲に数々の伝説、物語が残る弁天島
サメ100匹に食べられる? 当時、この静かな海にどれだけの人食いザメがいたのか。映画『ジョーズ』も顔負けの地獄絵図を思い浮かべてしまったが、下船後にあらためて添乗員さんに聞いてみたら、100はサメの数ではなくて、「銭百貫出す。太刀を探せ」と侍が命じたらしい。
けれどサメがいたのは本当らしく、漁師たちは怖がって誰も海に入らない。侍は漁師を「臆病者」とののしったので、一人の若者が「鞆の漁師の名が傷つけられては」と命がけで飛び込んで太刀を見つけた。ところがサメに足を食われて死んでしまい、侍は反省し、銭百貫で弁天島に11層の石塔婆を建て、若者を弔(とむら)ったという。
この名もなき漁師の話とともに石塔婆はいまも残されている。鞆の漁師たちにとって忘れられない後世に伝えるべき大事件だったのだろう。800年後の令和の時代でも、こうして観光船でアナウンスされているのだから。
その弁天島から少し北の沖には、刀ではなくもっと大きなものが沈んでいる。歴史上、有名な事故として知られている、坂本龍馬ら海援隊を乗せた「いろは丸」という蒸気船だ。江戸時代最後の年の1867年、いろは丸の6倍近い大きさの紀州藩の蒸気船が衝突。いろは丸は大破して鞆の浦港に曳航(えいこう)されている途中で沈没してしまう。死者は出なかったが、鞆の浦港に上陸して4日間、補償をめぐって海援隊と紀州藩、互いに必死の交渉がおこなわれたそうだ。
クルーズ船は弁天島でUターンして戻り始めた。福山は陸だけでなく、海にもいろいろ歴史や見どころがあって飽きることがない。ところで、この海援隊と紀州藩の交渉の結末はどうなったのだろう。気になる。後で調べてみると龍馬のちょっと……いやだいぶイメージが変わる驚きの史実が判明して私はおおいに凹んだけれど、次回、鞆の観光名所にも触れながら、少しだけこの話を紹介したい。
──第4回に続く──
■あぶと本館:クルージング https://www.abuto.com/honkan/cruising.html
photo & text:白石あづさ
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