「板倉」が飢餓を、「石棒」が世界を救う!? 岐阜・飛騨市で見た先人の知恵【第4回】
ノンフィクションライターの白石あづさによる、飛騨市の素顔をめぐる旅第4回は、ディープでマニアックな情報を持つ地元の人びとの案内で、北部の宮川町を訪ねます。そこには縄文時代からこの地が栄え、江戸時代や明治初期には近隣の村を救ったという、たしかな“証拠”がありました。
ここにしかない景観! 種蔵地区の「板倉」群!!
飛騨から長野県の松本へ向かう旅の僧は、危険な峠の旧道を経て、ひとりの妖艶な美女が暮らす狐屋にたどり着く。そんな泉鏡花の幻想小説『高野聖』の舞台は、飛騨市と白川村の境にある飛騨天生峠だ。飛騨の森は奥深くて暗く、幻想的で神秘的。人智を超えた何かが出てきてもおかしくはないと、泉鏡花は感じたのかもしれない。
今日はその深い深い飛騨の森をめざし、町を離れて飛騨市の北部にある宮川町(みやがわまち)へと向かう。ハンドルを握っていた市職員の石原伶奈さんが「ここからちょっと急坂を登りますね~」と、街道から入った細いクネクネの道を一気に上っていく。
このあたりには集落が点在しているが、今回、訪れのるは、種蔵(たねくら)という集落だ。種の蔵? 少し変わった名前である。集落に到着すると視界が開け、棚田の趣(おもむき)ある風景が広がっていた。特徴的なのは、畦(あぜ)がお城の石垣のように石積みでつくられた棚田の脇に、いわゆる土蔵ではなく「板倉」と呼ばれる、外壁に木板が貼られた倉庫が群れるように建っていることだ。
種蔵地区を案内してくれた飛騨市宮川振興事務所の土田憲司さん
駐車場に車を駐めて降りると、作業服の男性が「こんにちは!」と近づいてきた。石原さんは「彼は宮川町地区の産業振興を担当している土田です! 山村の河合出身なので甲斐性があるんです。やっぱり山の人は生きる力があるんですよ」と目が輝いた。ふと酒好きの古川やんちゃの町の男たちの顔が浮かんだが、同じ市でも山と町では人の雰囲気がまた少し違うのかもしれない。
その土田さんは他の仕事もあるだろうに、さわやかな笑顔で快く案内を申し出てくれた。さすが同僚絶賛のナイスガイである。 「現在、20棟の板倉が残っています。なぜ種蔵地区には板倉が多いのか。土地が少ないこのあたりは昔から非常に貧しく、江戸時代から明治の初めごろまでの約100年の間に10回もの飢饉(ききん)が起きたそうです。長雨や日照り続きで作物がとれず、今日、明日の食べ物もない。だから次の年に撒く作物の種さえ食べてしまう。だから少しでも多く作物が採れた年は板倉に種を保存しておきました。家から少し離れた場所に板倉を建てているのは、当時は火事が多かったから。家が燃えても大事な種が残っていれば、翌年の作物を育てられますから」
板倉自体は他の集落でも見られるそうだが、高台にある種蔵地区は雪が多く、冬は陸の孤島となってしまう。だからこそ板倉の数も多い。いまでは飢饉もなければ、種もどこでも買える。だから種を保存する板倉の役割はすでに終えている。それでも、これだけの数が残されているのは種蔵だけ。この地域の住民は代々、「家は壊しても倉だけは守れ」との言い伝えを守り、よその地区に移住するときは、旧家は壊しても板倉だけは村に残していくそうだ。だからいま、種蔵地区では民家の数よりも板倉のほうが多いのだ。
飛騨市が管理している板倉。さすがに年季を感じさせる
市が管理する板倉の内部。農作業用の道具でいっぱいだ
板倉全盛期のようすがわかる飛騨市管理の板倉を、土田さんが開けてくれた。内部は2階建てになっており、入り口付近には蓑(みの)や草鞋、クワやスキなど農具がかけられている。その奥に種の貯蔵スペース。2階には、正月などの宴席でつかう道具などがあった。
土田さんの案内で、10以上の板倉を一気に見渡せる高台に移動した。いまも交通の便の悪い種蔵に暮らしているのは、他町からこの地の田んぼに通っている人たちを含めても、8世帯15人だけだ。しかし、この風景をいつまでも残したいと願う人々はたくさんいて、ここで暮らさずともインターネットを通じた「バーチャル村民」となって応援できる「飛騨市ふるさと種蔵村」を結成している。同会は1年を通じ、さまざまなリアルイベントを開催しているという。
飛騨市ふるさと種蔵村のメンバーであり、「村長」を務める荒谷勇さん
そこから少し歩くと、目の前に軽トラックが停まり、運転席から「どっこらしょ」と人が降りてきた。種蔵地区の“村長”荒谷勇さんだという。これから田んぼの作業のようだ。声をかけると、「もう年をとって景観を維持するのが大変だけど、外からの人も手伝ってもらってなんとか景観を残せています。この後もできる限り守っていきたいですね」と語ってくれた。
石積みが美しい古い棚田は、まだまだ健在
集落をひと回りすると、「さらに上の方に、古い棚田があるんです。景色もいいので見に行きましょう」と土田さんが車に乗り込んだ。
古い棚田への道は細くガードレールは切れている。土田さんの車を必死に追う石原さんは、「大丈夫です。Uターンはきっと甲斐性のある土田さんがやってくれるでしょう」とほほ笑みつつも顔がこわばっている。標高450mの集落から、さらに150mほど上がっただろうか、美しい石積みの棚田が現れた。すでに田んぼとしてはつかわれていないが、いまも崩れずに残っている。
昭和に入り人口が増えた種蔵地区では、さらなる棚田が必要になった。だがすべて手作業の当時、それは大変な工事だった。地面の石を掘り起こしては手積みしていく。石が足りなければ、山の上から運んでくるしかない。同時に田んぼやカイコの世話、森林の伐採とやることは毎日、山積みだ。さらに太平洋戦争が起きて、男たちが戦争にとられたり戦死したり、結局、この高台の棚田が完成したのは昭和27年ごろ。実に12年がかりの難工事であった。そんな先人たちの苦労をしのびつつ、石積みの田んぼから少し下ると木々の間から美しい集落全体を見渡せた。
さらなる高台から板倉と種蔵集落、棚田を望む
実は、種蔵はもともと「棚倉」という地名だったという。陸奥国白川郡(福島県)の棚倉から移り住んだ人たちが、出身地の名前をこの地区にもつけたからだ(諸説あり)。それがどうして種蔵に変わったのだろう?
それは周辺の集落が飢饉のとき、この地の人びとが周辺住民に種を分け与えたから。救われた他の集落の人たちが尊敬と感謝の念を込めて、種を貯蔵している村=種蔵と呼ぶようになったのだという。こうして多くの人の命を守ってきた板倉自体も「田の神」とされ、大晦日には各板倉に鏡餅と松が飾られたそうだ。
「困っている他の集落を助けた。それが種蔵の誇りなのです」と土田さん。飛騨には、こうした助け合いの文化が残っている。そして、それを受け継ぐ志ある人たちが種蔵を守っているのだ。
「石棒」が躍動する「飛騨みやがわ考古民俗館」
関東で暮らしている私は、川は南に向かって流れるものだと思い込んでいるが、飛騨市の川は北の日本海側に流れる。種蔵から宮川沿いの街道に出て、さらにゆるやかに下って車で30分ほど走ったところ、うっそうとした森の中にずいぶんと立派な博物館が現れた。飛騨の山あいの暮らしを伝える「飛騨みやがわ考古民俗館」(以下、考古民俗館)だ。
考古民俗館を案内してくれた木下孔暉さんと保谷里歩さん
到着すると、今日が解説デビューという若い学芸員の2人が待っていてくれた(上写真)。木下孔暉さんと保谷里歩さんだ。手にはしっかり予習プリントを持っている。こちらの博物館は主に雪国の暮らしを伝える民俗資料と旧石器時代から縄文時代の考古資料を展示するふたつの館と、外にある古民家「旧中村家」から成り立っている。
スリッパに履き替え館内に入ると、先ほど訪れた種蔵のかつての暮らしを彷彿とさせる蓑や雪靴、農作業用のクワや漁業でつかう大きな籠など、さまざまな道具が展示されていて壮観である。それにしてもすごい点数だ。聞けば収蔵資料を含め、民俗資料だけで1万6000点になるという。
よくぞ集めたと言いたくなる民具の数々
一方で約1万4000年前〜約2300年前、旧石器時代から縄文時代の考古資料は、さらに多い4万点を収蔵しているのだとか。「山も川もあって、食糧となる獣、魚、キノコや木の実が手に入る飛騨の山は、縄文時代は暮らしやすく豊かだったのでしょう」と保谷さん。なるほど、縄文人にとっては飛騨の山があこがれの一等地だったのかもしれない。
さて、その縄文ゾーンに入ったとたん、ふたりが急に喜々として「石棒」について猛烈に語りだした。
左から右へ。石棒の製造過程が説明されている
石棒と聞いて、とっさに杭かすり棒のようなものを頭に思い描いたが、まったく違った。石棒は、男根をイメージしてつくられたといわれる縄文人の「作品」だったのだ。子孫繁栄を祈って祭祀でつかわれたと考えられているが、まだまだ謎が多い。実は石棒自体はそれほど珍しいものではなく、北海道から九州まで全国で出土しているらしい。しかし、木下さんは、「宮川町は『石棒の聖地』なんです」と声を弾ませながら言った。
「ふつうはひとつの遺跡から数個しか石棒は出土しないんです。でも、ここ宮川町ではなんと1000以上もの石棒が一気に見つかりました。もちろん全国一です!」
保谷さんも続ける。
「さらにすごいのは、完成形の石棒だけでなく、原石、剥離(はくり)、敲打(こうだ)、研磨など各制作工程の資料が全部といっていいほど確認できるんです。さらに石棒製作のためつかった工具まで判明しています。宮川町でとれる『塩屋石』をつかっていて、それが北陸に広まっているんですよ。つまり、この地で集団で石棒を製造し各地に流通させていたのだと考えられます」
塩屋石は「黒雲母流紋岩質溶結凝灰岩」という立派な正式名称を持つ石で、縦にきれいに割れる性質があり、石棒づくりに適しているのだという。ひと口に石棒といっても、全長10㎝から1mを超えるもの、粗削りなものや磨かれたものなど、バラエティに富んでいる。
その石棒コーナーの中心で、私は夢に出てきそうなすごいものを見てしまった。シューと機械音がしたので振り返ると、やたらと太い石棒2本がまるでお立ち台のようにライトを浴びて、ぐるぐると回転していたのだ。
これぞ、石棒のお立ち台!? グルグル回るリアルな石棒
歩かずとも四方八方から眺められるのだが、「あまり予算もない民俗館で」と聞いていたのに、ここにお金をかけた理由はなぜだろう。その疑問もあいまって、何か縄文の気づきなどあるんじゃないかと回る石棒を無心で眺めることにした。
市民らが精力を注ぐ「石棒クラブ」とは?
しかし、石棒について再び語りだした2人の話が斜め上すぎて、すぐに心が乱れた。
「実は『石棒クラブ』っていうのも、がんばっていまして……」
石棒クラブ? 考古民俗館ファンクラブとか縄文クラブじゃなくて、石棒ピンポイント? その場でスマホを手に検索してみれば、石棒を愛する人たちで結成された会で、石棒の魅力発信が主な活動らしい。しかし「石棒で世界を変える」「石棒は私たちの希望」という壮大過ぎるキャッチフレーズや、たまに開催しているイベント名が、「石棒ナイトパーティ」「石棒神経衰弱」「石棒バー」と文字づらだけ追っても謎に満ちている。
「ふふ。その石棒クラブでは、インスタで毎日、『一日一石棒』しているんですよ」
一日一石棒とはこれまたパワーワードである。宮川町で出土した1074本の石棒を毎日、インスタグラムなどにアップしているという。たしかにクラブのSNSを覗くとズラリと石棒の写真が並んでいたりするが、インスタ映えとは無縁の地味な投稿だ。それでも、その渋さがいいのか石棒ファンを全国にジワジワと増やしていったという。
そんなある日のこと、石棒が、文化庁発行『月刊文化財』の表紙を飾るという快挙を成し遂げたのだ。一般の人にはほぼ知られていないマニアックな雑誌ではあるが、国宝でもない石棒が表紙に登場するのはかなりレアなことらしい。
うれしいことは続く。2019年の石棒クラブ設立以来、全国からの石棒見学者が殺到し、この5年で考古民俗館の入館者数が約4.6倍に増えたというのだ。縄文人も、子孫繁栄を願ってせっせとつくった石棒が、まさかこんなに未来の住人たちを喜ばせているとは夢にも思っていないだろう。飛騨市はまだまだすごいポテンシャルを秘めた土地なのではないか。
宮川町を空から見るとこんな感じらしい。ほとんど山と森!
飛騨の山と聞いて、「高野聖」の旅僧のように何か妖艶で未知なるものに出会うんじゃないかと期待していたが、まさか石棒だったとは。しかし、石棒愛が止まらず語り続ける新人学芸員の2人と、その横でぐるぐる回る石棒を交互に眺めていると、「もしかしたら、1万数千年の眠りから覚めた石棒の力で、飛騨の魅力が全国に広がってくのも夢じゃないかも」と思えてくる。
薬草料理に取り組む人々や古川のやんちゃ男、朝市に朴葉寿司づくり、野草畑と薬草茶、種蔵の板蔵文化、そして石棒を愛する宮川の人びとなど4回にわたって飛騨市のあれこれをご紹介してきたが、この地の旅は「こうであるだろう」という予想が次々と気持ちよく裏切られる。どこに行っても意外性に満ちている。それは飛騨の人が自分の力で考え、年齢を経てなお生きることを楽しんでいるからだろう。人の心に触れ、旅らしい旅ができる町、それが飛騨なのだ。ぜひ足を延ばしてみてほしい。
取材・文・写真/白石あづさ
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