芸術の秋を取り戻す、映画を通じて考えるサステナブル
SDGsって結局何をすればいいの?エシカルもカーボンニュートラルも大事なことはわかるけどいざ実践するのは簡単じゃないよね・・・そんなDoWellとは縁遠い生活を送ってきた筆者(PRプランナー時々母親)が、ふとしたきっかけでDoWellに向き合うことに。さあ大変、知識も意識も足りない筆者が背伸びせずに身の回りの手の届く範囲でできるDoWellな事=半径10mのDoWellを紹介するコラムです。今回は身近でありながらよく知られていない3本の映画について、お届けします。
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昨日まで日中半袖で過ごせるぐらいの暖かさだったのに、翌日急に真冬なみに冷え込んだりする今年の秋。春夏から秋を飛び越えて冬が来てしまったような季節の移ろい方にも気候変動の影響を感じてしまう今日この頃です。
そんな飛び越えてしまった秋を取り戻すべく、今回のコラムでは「芸術・文化の秋」にちなんで、サステナブルについて考えるきっかけを与えてくれる映画をご紹介したいと思います。
①こどもの視点で海洋プラスチック問題を学ぶ映画『マイクロ・プラスチック・ストーリー~ぼくらがつくる2050年~』
最初に紹介するのは、このコラムを書き始めるきっかけにもなった、映画『マイクロ・プラスチック・ストーリー』です。ニューヨーク・ブルックリンの小学生が2年にわたって、プラスチック汚染の問題を学び、学んだだけでなく自分達の学校や街でどのようにこの問題に取り組めるかを試行錯誤し、アクションを生み出す過程を描くドキュメンタリーフィルムです。
近年、日本でも報道される機会が増えた海洋プラスチックの問題。正直、使い捨てプラスチックの簡便さの恩恵を浴び続けた我々大人にとってはレジ袋の有料化一つとっても「面倒だな」「大変だな」という思いが勝ってしまい、海の中で起きているプラスチックの問題はどこか遠いことのように感じていました。でも、実際に使い捨てられたプラスチックゴミが分解されず、蓄積され続けた先の未来、その影響を受けることになるこども達にとっては、違うかもしれません。それは遠い世界のことでなく、確実に自分達の未来とつながっている。映画の副題である「ぼくらがつくる2050年」にはそうした意図も込められているのだと思います。
すでに日本でも様々なイベントの中で上映され、複数回にわたってオンライン上映会も開催されているこの映画。内容の素晴らしさはもちろんなのですが、私が感心したのは日本語版制作にあたってのアクションです。コラム第1回でもご紹介したように、この映画の日本語版制作にあたっては、映画に登場するNYの小学生達の声の吹き替え声優として、一般のこども達から声優を募集するというプログラムが展開されていました。
事後のレポートによれば、この声優オーディションには、全国から600名以上の子供達が参加したとのこと。見事役を勝ち取った子はもちろん、我が家の娘のように敢えなく撃沈した子も、応募の過程でオンライン上映会に参加し、真剣に映画を観ることで、自分だったらこのマイクロプラスチックの問題にどう向き合うかを考える機会を得ることになります。そしてオーディションに参加したこども達は、終了後にもこの映画のアンバサダープログラムに登録できる仕組みになっており、監督との交流会やオンラインスクールなど様々な活動に参加できます。
こうしたプログラムが制作過程に盛り込まれていることで、こども達がこの問題を遠い外国のこと、自分と違う世界のことではなく、しっかり自分のこととして捉えられる形になっている。そのことにものすごく感銘を受けました。
こうして多くのこども達とともに作りあげられた日本語版はまもなく公開とのこと。ぜひ多くのこども達、そして大人達にも鑑賞してもらい“自分ごと”の機会を得て欲しいと思っています。
②ファッション好きにこそ観て欲しいドキュメンタリー映画『ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代価』
続いて紹介するのは2015年に日本でも公開されたドキュメンタリー映画『ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代価』です。映画が上映されたのは、惜しまれながら今年5月に閉館したアップリンク渋谷。確か当時、たまたま上京してきていた父親と一緒に観に行ったのではなかったかと思います。
映画が作られたきっかけは2013年にバングラデシュの首都ダッカ近郊で起きたビル倒壊事故。この事故で倒壊したビル「ラナ・プラザ」には欧米ブランドの衣料品生産を担う複数の縫製工場が入っており、その生産に従事する従業員を中心に1100名以上の犠牲者を出しました。
事故の原因は、大量の衣料品をコストを下げて作るために安全管理がおざなりにされたこと。欧米のファッション企業からの要望に応えて、生産量を高めるために、ビルは増築を繰り返して工場が拡大されました。ただ、その増築はコストを抑えるために、鉄筋もろくに使われない違法なものだったのです。こうした違法増築を繰り返した結果、事故の前日にはビル全体に亀裂が見られる状態だったにもかかわらず、工場の経営者は従業員の避難より生産量を保ち続けるための操業を優先しました。結果として、ファッション史上最悪とも呼ばれる倒壊事故が起きてしまったのです。
この映画が追ったのは、この事故が起きるに至ったファッション業界の抱える根深い闇。短期間で最新デザインのアイテムが店頭に並び、低価格で購入できるファストファッションの仕組みは、私達の洋服との付き合い方を大きく変化させてくれました。ちょっとだけ気になるアイテムをネットショッピングで気軽にポチり、1シーズンしか使わないであろう流行アイテムはファストファッションブランドで気軽に買い、いずれも似合わなければまあいいやとシーズン終わりに廃棄する。気に入ったアイテムは思わず“色ち買い”して結局着ないままでもそれほど懐が痛まない。
多くのファストファッションブランドが日本に広がった2010年代以降は私もこんな買い物を繰り返してきました。
そんな私達に向けてこの映画は「服に対して本当のコストを支払っているのは誰か?」と問いを投げかけます。衣料品の低価格化によって、私達がファッションを気軽に楽しめる様になった一方で、その低価格化の代償を払わされている人達がいること。大量生産・大量消費、そして大量廃棄が繰り返されるようになった結果、ファッション業界が環境に与える負荷が石油業界につぐ2番目の大きさに達していること。
誰もが身につけるもっとも身近な存在である衣料品の裏側で支払われる様々な代価が丁寧に描かれていました。映画を見終わった後、ファストファッションブランドが立ち並ぶ渋谷の通りを歩きながら、身近ゆえに見落とされやすい一方で、それゆえに大きな力を持ち、変革のきっかけを起こすファッションのあり方を改めて考えたものです。
③ジョニー・デップが実在の写真家役を通じて水俣病の悲劇を世界に伝える映画『MINAMATA』
最後に紹介するのは、今年の秋に公開されたばかりの映画『MINAMATA』です。『チャーリーとチョコレート工場』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』での奇妙な振る舞いのキャラクターで知られるジョニー・デップが、実在の写真家ウィリアム・ユージン・スミス(1918-1978)を演じ、彼が写真を通じて世界に伝えた水俣病の問題を改めて描く物語です。
おそらく多くの日本人がそうであるように、私もまた水俣病については小学校時代の教科書を通じて触れ、知識を持っていました。ただ、その「知識」と存在しているということと、本当の意味で「知る」ということには大きな隔たりがあるのだなと感じるきっかけになったのがこの映画です。小学校の社会科の教科書に載せられた被害者の写真と、工場の廃液による「公害」という事象、「繰り返してはいけない悲劇です」という先生の言葉。それらの組み合わせによって形作られた「知識」から根本的に抜けているものがありました。それは、実際にそこに生きて、水俣病と向き合ったであろう人々の“心情”とそれを想像すること。
この映画で描かれているのは、史実を下敷きにした事象でもありますが、もっと大きいのは私の「知識」からごっそり抜け落ちていた、そこに生きた人々の“心情”かもしれない。1970年代初頭のアメリカで、多くの実績を持ちつつ酒に溺れたカメラマンのユージンが日本人女性の呼びかけによって、日本を訪れ、水俣病で苦しむ人々と出会う。そしてカメラを通して交わり、心をかわし、今そこで起きている問題を世界に向けて伝える。その過程が、そこに生きた人々の“心情”とともに丁寧に描かれることで、「知識」だけだった水俣病と人の経済活動によって起こされた「公害」というものが、遠いものではなく自分に連なるものとして迫ってくるような感覚を得ました。同時に「知識」だけの時には、もう終わったものとして捉えていたこの問題が、実はまだ終わっておらず、今もまだ存在し続けているということも知ったのです。
観終わって改めて感じたのが、この物語を今描けたのは日本ではなく海外からの視点があったからではないかということです。あまりに当たり前の「知識」で常識だと認識している日本人にとっては、改めて今水俣病をフォーカスすることができなかったかもしれません。「知識」にとらわれない海外の人だからこそ、今取り上げるべき題材として映った。そしてそのことが結果として、我々日本人に改めてこの問題を自分のこととして捉えるきっかけを提示してくれたのではないかと思います。
この「知識」から「知る=“自分のこととして捉える”」という転換は、もしかしたら今世界で起きている環境問題に向き合う上ですごく大切なことなのかもしれないと感じました。
いかがでしたか? 本当は、映画だけではなく本や漫画なども広くご紹介したかったのですが、それぞれに語るべきことが多く今回はここでおしまいです。今回紹介しきれなかった作品達は、またの機会にぜひご紹介できればと思います。
文/村木みちる