「知ることから始まる」上白石萌音の胸に刺さった…被爆体験者が語る「あの日の広島」
俳優として役になりきることで、さまざまな人生を経験してきた上白石萌音さん。数年前には、戦争で夫を失い、子どもを抱いて空襲から逃げる、戦時下での女性を演じたこともありました。これまでも本や資料館で歴史に触れてきたという彼女が、広島に残る戦争の足跡を訪ねることに。今回は、当時、原爆を体験した語り部の河野キヨ美さんにお話しを伺いました。
被爆体験者が証言する、あの日のヒロシマ
1945年、広島に原子爆弾が落とされた時、私は14歳で、女学校の2年生でした。当時、太平洋戦争の戦況はどんどん厳しくなり、1938年に国家総動員法ができると、若い男の人はみんな兵隊に取られていきました。広島市の中学生も3年生以上は家から離れた軍需工場で、兵器の部品を作っていました。あの頃、東京や大阪、名古屋、神戸で毎日空襲がありましたから、広島も空襲されたら大変だと、1年生と2年生は「建物疎開」といって、7つある川と川の間の家を壊して6ヵ所ほど、防火のための空き地を作るように命じられたんです。全部で約8400人の子どもたちが動員されて、暑い夏の炎天下、食べるものも十分でない中、御国のためにと一生懸命に家を壊し、瓦や材木を運んでいました。
私たちの学校には、市内の家からかき集めたミシンがいっぱい運ばれてきました。それを使って毎日、来る日も来る日も、兵隊さんのシャツとズボンを縫いました。先生の指導で薙刀の稽古もしましたが、戦況が厳しくなると薙刀の代わりに先の尖った竹槍を作って、運動場で人を突く練習をしたんです。先生に、もうすぐ本土決戦ですから、敵が近づいてきたら先の尖ったところで喉を突くようにと教えられて。後になって考えたら、小さな女の子が竹槍で、銃を持つ兵士と戦えるわけがなかったのにね。神風が吹くから日本は戦争に勝つんだと言われて、それを信じ込んで懸命に人殺しの練習をしていました。当時は死ぬことも御国のためだと教育されていて、それをおかしいとは思わなかったんです。
8月6日のその日、地上約600mの上空で炸裂した原爆は、地上では3000~4000℃にもなる高熱で、半径2kmの人も建物も皆、焼き尽くしてしまいました。100℃のお湯の中にも手を浸けられないのに、さぞかし熱くて痛くて苦しかったでしょうね。その瞬間、誰も、何も考えることもできなかったでしょう。私は市内から35kmほど北の田舎に住んでいて直接被爆はしませんでしたが、家にいて、ものすごい雷が一度に落ちたような、聞いたこともないほど大きなドーンという音を聞いて、爆弾が落ちたと思って外に飛び出したんです。でも、外に出ても何も起こっていないんですよね。おかしいなと思っていたら、ムクムクムクと音もなく、市内の空のほうから大きなきのこ雲が上がるのが見えました。テレビもない時代ですし、親は飛行場を造りに出かけていて家にいなかったし、心細かったことを思い出します。家の近くに芸備線の駅がありましたが、その日は汽車が動きませんでした。夕方近くなって、市内からケガをした血まみれの人がいっぱい運ばれてきて、その人たちから、大きな爆弾が落ちて広島市内が壊滅したと聞いたんです。
翌朝、私は母と一緒に2人の姉を探しに行くため、始発の汽車に乗りました。当時、姉の1人は宇品に、もう1人が市内の赤十字病院で看護師をしていたんです。手には姉の骨を包んで持って帰るための藁の束を持っていました。満員の汽車は、途中の駅までしか行きませんでした。仕方なくプラットホームに降りた瞬間、動物を焼いたような、腐ったような、目を刺すような、ものすごい臭いがして。そこで、昨日までたくさんあった家が綺麗に根こそぎ焼かれてなくなっていたのを見ました。まだあちこちから煙も上がっていました。そこから市内まで3時間ほど、私たちは絵にも言葉にもできないような状況の中を歩きました。道の反対側には、少しでも田舎に逃げようとする人が行列になっていて、彷徨うように歩いていました。彼らの髪はチリチリで、顔は大きく腫れ、肩から皮膚がめくれて指先にぶら下がっていました。私はとても自分と同じ人間とは思えなくて、お化けを見るようで怖くて、彼らを見ないようにして歩きました。みんな血を流していて、服がちぎれて半分裸でした。誰かモンペを貸してくださいと大きな声で叫ばれても、私たちは何もすることができませんでした。
市内に着くと、至るところに死体がいっぱい転がっていました。強烈な熱線で焼かれた人は大きく大きく膨らんでいて、目玉は流れ、舌が炭になって三角に伸び、腸や脳みそが流れて、性別もわかりませんでした。死体をまたいだり躓いたりしながら、怖くて怖くて、母親にしがみついて泣きながら歩きました。私の生涯で一番怖かった思い出です。川に落ちた死体を積んだ藁の中から聞こえた、お水をくださいというか細い女の人の声が、今でも耳に蘇ってきます。橋から川を見ると死体がいっぱい浮いて揺れていました。姉の病院に着くと血まみれの人が床じゅうに寝かされていて、なかには殺してくださいと泣く人もいました。その人たちの声がコンクリートの壁に反響し、ウォーンウォーンと断末魔の叫び声のように木霊して足がすくむようでした。病院の外に出ると、自分と同じ歳ほどの子どもの死体が、花壇の上に丸太のように積まれていました。とてもショックでした。「建物疎開」で家を壊していた子どものうち約6300人も、原爆で亡くなりました。
2人の姉は生きていたので、泣いて喜んだのを覚えています。線路を辿って家に戻っていた帰り道でも、焼けた電車の窓に炭の棒になった腕がぶら下がっていた光景が目に焼きついています。その後、姉が市内から子どもを連れて帰ってきましたが、十分な乳を飲ませることもできず、その子も亡くなりました。その頃から姉も髪の毛が抜けたり、歯茎から血が出たりするようになりました。
原子爆弾はたった一発で、1945年の8月6日から12月31日までだけでも、約14万人の命を奪ってしまいました。その後、長い時間をかけて私たちの先駆者たちが、広島や長崎の先人が核兵器廃絶と世界平和への願いを発信し続け、2020年にようやく国連で核兵器禁止条約の発効要件の50カ国に批准国数が達しました。その時は、ああ、やっと、と思いましたね。でもそれもつかの間、ロシアが核をちらつかせた戦争を始めたのは条約が発効された21年の翌年のことでした。私は被爆者として、これまで何のために伝えてきたのか、虚しくて悲しくて。それでも、世界唯一の被爆国である日本として私たちは、核兵器や戦争の恐ろしさを、どんなことがあっても伝え続けていかなければならないと思っています。
PROFILE
上白石萌音 かみしらいし・もね
俳優、歌手。1998年鹿児島県生まれ。2011年芸能界デビュー。以降、映画、ドラマ、舞台、歌手として数多くの作品に出演。
河野キヨ美 こうの・きよみ
1931年、広島市安佐北区生まれ。1945年、14歳の時に入市被爆。その記憶を「原爆の絵」に描き、絵本『あの日を、わたしは忘れない』を出版。国内外で証言を行う。
●情報は、FRaU2023年8月号発売時点のものです。
Photo:Ayumi Yamamoto Styling:Lisa Sato Hair & Make-Up:Tomoko Tominaga Text:Asuka Ochi Edit:Chizuru Atsuta Cooperation:HIROSHIMA FILM COMMISSION
Composition:林愛子
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