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中に入って体験できる国宝へ。渋沢栄一も関わった製糸場が伝えるもの
中に入って体験できる国宝へ。渋沢栄一も関わった製糸場が伝えるもの
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中に入って体験できる国宝へ。渋沢栄一も関わった製糸場が伝えるもの

明治維新後、生糸の品質改善・生産向上を目指し、官営の模範器械製糸場として誕生した富岡製糸場は、フランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに明治4年(1871年)から建設が始まり、翌年の明治5年(1872年)7月におもな建造物が完成した。


富岡製糸場に足を踏み入れてまず驚くのは、その広さだ。指定面積55,391.42平方メートルもの広大な土地に建てられた創成期の建築物の数々はほぼすべて当時のまま残されており、巨大な繰糸所や鉄水溜、女工館や東西の置繭所などから日本の産業革命の原点ともいえる富岡製糸場の往時の様子をうかがい知ることができる。


広大な敷地の一番奥に位置する西置繭所は、足かけ6年をかけて2020年(令和2年)に保存修理と耐震補強、そして新たな活用のための整備が完了。中にガラスの部屋をはめこむハウスインハウス手法を採用し、内部に外観からは想像もつかない新しい空間が誕生した。観光客が中に入って見学できるだけでなく、ギャラリーや多目的ホールなどさまざまな方法で活用できる新しい国宝は、持続可能な姿を獲得したことで過去を伝えるだけでなく、未来に向けたさまざまな可能性も示唆している。


富岡製糸場の設立には「日本経済の父」といわれた渋沢栄一が深く関わっている。渋沢は農家出身で養蚕に詳しかったことを見込まれて富岡製糸場設置主任に任命された。メンバーには渋沢の従兄弟である尾高惇忠も含まれており、製糸場の完成後は初代場長に就任する。尾高は特に工女たちの教育と教養の向上に力を注ぎ、誠実な人柄もあって工女たちにたいへん慕われていた。

家族も安心して送り出せるので、自分の娘が富岡製糸場の工女になることは誇りであり、一種のステイタスでもあったという。女性の雇用と教育に尽力した面も、富岡製糸場が日本の近代化の一翼を担っていた証であると言えるだろう。

世界遺産 富岡製糸場
公式サイト

観光客を出迎えてくれる木骨煉瓦造りの東置繭所は富岡製糸場のシンボル的存在である。
繰糸所に並ぶ自動繰糸機は昭和40年代に設置されたもの。かつては沢山の工女、繭から生糸を繰っていた。
西置繭所の内部。開放感のあるガラスの空間は、常に未来を見据えていた明治時代の建造物と見事に融合している。
創業時より繰糸器を動かす動力源として使われたブリュナエンジン(の復元機)が動態展示されている。
寄宿舎や診療所、女工館など、当時のまま残された施設からは、ここで働き暮らしていた人々の気配が残る。(写真は寄宿舎)
現在は乾燥場の保存修建工事がおこなわれている。

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