左利き回帰の旅へ
“今の暮らしを再考し、最高の日々をめざす”試行錯誤の日々を綴る『暮らしサイコウ』。3回目は「左利き」についての話です。
クロスドミナンス。この言葉を知る人が一体どれくらいいるだろう。
簡単に説明すると、用途によって利き手が変わることを指す。左右の手を均等に使える両利きとも違い、たとえば鉛筆は右利きだけどお箸は左利きという人などがこれに当たる。左利きだったのを矯正された人にも多いという。わたしもそんなクロスドミナンスの1人だ。
もともとわたしは完全な左利きだった。けれども幼い頃に厳しく矯正された。今、左利きは個性として認められ、矯正しない人も増えたけれど、わたしが子供の頃はそうではなかった。ダイバーシティ=多様性という言葉が一般的になるずっと前の話である。
昔、左利きは「ぎっちょ」「左ぎっちょ」と呼ばれ、親の躾がなっていないからだ、などと言われたものだ。子供の頃は意味を知らなかったので、きっととんでもなくひどい言葉なのだろうと思い、囃されるたびに真剣に腹を立てたり、傷ついたりした。けれども大人になって調べてみたところ、「ぎっちょ」というのは平安時代に流行したホッケーのような競技である「毬杖=ぎっちょう」から来た言葉らしい(諸説あり)。それが正しければ、単に「左ラケット使用者」くらいの意味だったのだ。なーんだ、である。
現在のわたしは箸と鉛筆、包丁を使うのとボールを投げるのは右利き、それ以外は限りなく両利きに近いクロスドミナンスだ。ところがクロスドミナンスとは言うものの、咄嗟に出る手は必ず左だし、多くのことを右手より左手でおこなっている。つまり、あれだけの厳しい矯正を経てもなお、わたしの本質は左利きで、右利きには直らなかったのだ。そもそも「直る」(治る)という言い方がおかしく、左利きは病気でも癖でもなく持って生まれたものなので、完全な右利きになることは多分ないのだろう。
そんなわたしに、数年前から不思議な変化が現れた。アイデアが浮かばなかったり、なんとなく煮詰まった状態になったときに左手で箸を使うと頭がスッキリするようになったのだ。また、疲れると右手で箸を使うのが億劫になり、つい左手で箸を使ってしまうようにもなった。歳をとって本来の自分に戻りたがっているのだろうか?気がつくとあらゆる面で、昔より左手を使うことが増えていた。
すると、これまでずっと手を出さずにきた“ある物欲”がむくむくと湧き上がって来た。それは「左利き用のグッズを買う」というものだった。
試しに検索してみたら、なんとECショップに『左ききの道具店』というお店があることが分かった。早速見てみると、機能面だけでなくデザインも優れた左利き用の道具が集められた素敵なお店だ。過去「トールサイズのための着物ショップ」や「25㎝以上の靴のお店」を探したことがあったけれど、ニッチな商品を扱う店にセンスの良いところは少なく、自虐的な気分になって落ち込むことも多かった。けれども『左ききの道具店』を見ていると、自分が左利きであることがさらに好きになってくる(もともとわたしは自分が左利きであることをとても気に入っている)。嬉しくて色々と物色していたら、少し前に割れてしまった急須と同じメーカーである白山陶器の急須「茶和」の左手用を発見。これぞ運命とばかりに迷わずポチッとしてしまった。もしやこれは沼の始まり……?
「左ききの道具店」の人気アイテム3品。
(上)「左ききの手帳」は書く左手で隠れにくいよう日付を右上に、週間見開きページのレイアウトを左右逆にするなど左手で書く人のための工夫がつまったオリジナル手帳。(2022年版は9/13発売)
(中)左手用の万年筆(Schneider)も人気。左手で書いても引っかかりにくいよう、ペン先が調整されている。日本国内では「左ききの道具店」のみ取り扱いのカラーも多数。
(下)人気のmorinokiシリーズのブレッドナイフは、メーカーの志津刃物製作所さんに店長自らお願いして、左手用を作ってもらったとか。パンがきれいに、まっすぐ切れる優れもの。
「左ききの道具店」のおかげで左利き用グッズに目覚めたわたしは、以前から気になっていた、ある場所を詣でることにした。それは一部の左利きの間で“左利きの聖地”とも呼ばれている、左利き用の文具や調理具などをリアル店舗で販売している「菊屋浦上商事株式会社」(以下「菊屋さん」)だった。それまでは「自分は右利き用を不自由に使うのが好きな左利きだし」という舌を噛みそうな複雑な心理を抱えていたため、訪問するモチベーションがなかったのだ。けれども左利き用グッズに目覚めた今は違う。むしろ行かない理由がない。
というわけで期待に胸躍らせ、とある昼下がり、相模原にある菊屋さんを訪ねた。左利きグッズコーナーは広い店舗の一角にあり、多くの左利きが日頃不自由に感じている文具や調理器具などがずらりと揃っていた。応対してくれた浦上裕史会長に商品の説明をしていただき、左利きとして生まれながら、これまで気づいていなかったこともたくさん教えていただいた。すっかり左利き用グッズの虜になったわたしは、細々したものを数点購入し、ウキウキしながら店を後にした。新しい扉が開いたような爽快な気分だった。
帰宅し、早速買った左利き用の調理器具を使って料理をしてみた。買ったものは左利きなら多くの人が「わかる~」と思うであろう調理用のヘラ、フライ返し(購入したのは代わりになるバターピーター)、レードルだ。さてどんなもんだろうと思いつつ使ってみたら……! ものすごくやりやすい。劇的というより、ごく当たり前といった感じでしっくり来ることに驚いた。
続いて左利き用のはさみで紙を切ってみた。これまた嘘みたいにスイスイである。この数十年、わたしは何のために右利き用の道具を左手でぎこちなく使っていたのだろう。左利き用グッズ万歳、ダイバーシティ万歳である。
その時ふと、これらの道具を右手で使ってみたらどうなるだろう? という考えが浮かんだ。そこで試しに左利き用のヘラを右手で持ってみた。つまり、これまでさんざんやってきたことの逆をしてみたのだ。ところがこれが、びっくりするほど使いにくい。それどころかまったく操れないので、さっさと使うのをやめてしまった。大袈裟でなく、これまで自分がどれほど不自由な世界を生きていたのかを客観的に知ることができ、とても面白かった。
みんなと同じになるようにと必死で矯正してくれた両親には感謝しているし、クロスドミナンスになれたことはとても良かったと思っている。けれどもこれからはせっせと左利きグッズを集めて快適な左利きライフを追求し、矯正によって左手でできなくなってしまった能力(文字を書いたり包丁を使ったり)を取り戻したい。そうすれば、矯正されたと同時に封印されてしまったかもしれない特別な能力が開花するのでは?
などとありそうもない期待もちょっぴり抱きつつ、最近は左利き回帰への旅を楽しんでいる。
(取材協力)
菊屋浦上商事株式会社
●公式サイト
左ききの道具店
●公式オンラインショップ
エッセイコンテスト入賞を機にファッションの世界からライターへ。現在はおもに広告・PR業に編集も。小さめの映画と街歩きが好き。牛肉・はまぐり・鋳物で知られる三重県桑名市出身。